【研究発表】昆虫学の大問題=「昆虫はなぜ海にいないのか」に関する新仮説

報道発表
1.概要

 昆虫は記載種だけでも100万種を超えるほどの多様性を誇り、地球で最も繁栄している生物ともいわれています。翅を持つ利点などを活かし、陸上ではあらゆる環境へと適応している昆虫ですが、海洋環境に適応している種の数は非常に少なく、この理由について在野の昆虫愛好家を交えた議論が長らく続いています。本研究は、節足動物である昆虫にとって重要な体構造である外骨格に着目し、それが硬くなるために用いられるメカニズムに関連づけ「昆虫が海にほとんどいない」理由の説明を試みています。外骨格を硬くする過程で、昆虫は酸素分子を補因子とする化学反応を必要としますが、水中は陸上(空気中)と比較し、30分の1しか酸素が含まれておらず、これが水への進出に際して一つの障害となっている可能性があります。酸素が豊富な陸上とは対照的に、海水中では昆虫に近縁とされる甲殻類が繁栄しています。オキアミの資源量のみで他を圧倒するなど、甲殻類は海水中で優勢を誇っていますが、彼らは海水に豊富に含まれるカルシウム(以下、Ca)を利用して外骨格を硬くしています。昆虫と甲殻類は共に節足動物であり、同じ生息環境を巡って競合する関係にありますが、Caによって作られる頑丈な外骨格を持つ甲殻類が待ち構える海水中は、外骨格を効率よく硬くできない昆虫にとって過酷な環境といえます。これが、昆虫が海に進出できていない理由に関する新仮説の概要ですが(図1)、このような考えは過去誰も提唱していない独自のものです。近年発達著しいゲノム解析技術で得られた情報を活用し、私たちは昆虫の定義や繁栄に関わる最新理論をすでに発表していますが(Asano et al., 2014; Asano et al., 2019; Asano, 2022)、本研究はその理論をさらに発展させたもの、という位置付けとなります。

image-2

図1 甲殻類と昆虫が海と陸上でそれぞれ繁栄していることに関係する要因

2.ポイント

 昆虫の起源・進化に関する議論の中で、「多足類(ムカデ/ヤスデ)と昆虫が近縁である」という形態学に根ざした旧来の考えに対し、遺伝子の配列情報を元に「甲殻類と昆虫が近縁関係にある」という説が提唱されてから20年以上経過しています。加えて、「甲殻類と昆虫(六脚類)は同格の分類群(姉妹群)である」という伝統的解釈も否定されつつある状況です。現在、甲殻類と昆虫を併せて汎甲殻類と呼ぶようになっていますが、最新の学説では「昆虫は汎甲殻類を構成するごく一部の分類群に過ぎない」とされています(図2)。昆虫が多様であることは広く認められていますが、甲殻類に関しても実は「形態学的には最も多様な動物である」とする考えもあります。海水中と陸上の両方で汎甲殻類は圧倒的に繁栄していますが、彼らの特徴として多様化による環境適応の高いポテンシャルが挙げられるのではないかと考えられます。ちなみに、外骨格の存在は、海から陸上への進出に有利な形質とされ、節足動物がいち早く上陸できた最大要因の一つとされています。
 元々は海にいた甲殻類の一部(ムカデエビ(Remipedia)との共通祖先から分岐した分類群)が陸上環境へと進出し(図2)、やがて昆虫に進化する過程で昆虫は昆虫独自の遺伝子を獲得し、それを用いた昆虫独自の外骨格硬化を行うようになった、とする説を我々は提唱しています。このプロセスに必須なマルチ銅オキシデース2(multicopper oxidase-2: MCO2)と呼ばれる酵素は、我々が行なった分子系統解析の結果、昆虫独自に進化した酵素であることが判明しています。このMCO2と酸素分子を用いて、陸上では供給に制限のあるCaに頼らず外骨格を硬くできるようになり、その結果、昆虫は甲殻類に先立って初期の原始陸上生態系に適応放散できたと考えられます。また、Ca沈着を伴わない外骨格は軽量であることから「軽くて丈夫」な外骨格を昆虫が得たことにもなります。これは、のちに昆虫が飛行能力を発達させる上で重要な要因だといえます。しかしながら、陸上環境へ適応する過程では有利だった形質(Caを使わないで酸素分子を利用する → 図1)が、海への再進出に際して不利な形質になるのではないかというのが、私たちの新仮説の重要ポイントです。

image-3

 図2 汎甲殻類(甲殻類と昆虫)の進化学的位置関係

3.研究の背景

 昆虫が海にいない理由として、1)昆虫が海水に適応できない(浸透圧、塩分)、2)水圧で気管が壊れる、3)捕食圧の高さ(魚の存在?)など様々な仮説が立てられていましたが、外洋や海水中、深海などでも生存可能な種が報告されるにつれて、これらは否定的に論じられるようになっています(Cheng and Mishra, 2022)。昆虫生理学的に説得力ある仮説が提示されないまま、現時点で最も有力だとされる仮説は生態学の用語による概念的解釈です。それは、「節足動物が占有できる生態学的地位(ニッチ)が、甲殻類を含む動物に予め占有されており、昆虫が後からつけ入る隙間がない」という説です。しかしこれは「昆虫が海にいない理由はまだよく分からないが、このような説明は可能」といった域を超えておらず、昆虫が海にいない理由に関するスッキリした説明は未だ提示されていないという状況です。その中で、我々はこの生態学的説明を支持しつつ、環境要因やゲノム情報・分子進化学的知見を組み入れEco-Evo的に「昆虫が海にいない理由」を考察しています。これが本研究の重要かつ、過去の研究・仮説に見られない特徴だと考えています。 

4.研究の詳細

<タイトル>

Eco-evolutionary implication for a possible contribution of cuticle hardening system in insect evolution and terrestrialisation

<著者> 

朝野 維起、橋本 晃生、エヴァーロード・クレッグ

<雑誌名>

Physiological Entomology

<DOI>

 DOI: 10.1111/phen.12406(オープンアクセス) https://doi.org/10.1111/phen.12406

5.研究の意義と波及効果

 すでに著名な海洋昆虫学者からかなり肯定的な反響を得ており、本研究が提示する新仮説は、専門家の間で一定の評価を受けるだけの説得力があるのではないかと考えています。昆虫が海へと再進出することが困難な理由に関する議論は、本格的な学術論文以外でも活発であることから、一般の興味を引く可能性は高いといえます。ただし本研究の本質は、私たちがこれまで提示してきた理論そのものです。甲殻類から昆虫が進化する過程で (1)昆虫が昆虫独自の遺伝子を獲得し、それにより(2)昆虫独自の外骨格形成が可能となり、(3)この独自性こそが昆虫を昆虫たらしめる特徴(=昆虫の定義)であることに加え、昆虫が陸上で繁栄できた優位性の一つではないか、といった仮定こそが最も重要な点です。形態学や分子系統学の分野で議論が尽くされている昆虫の定義については、内顎類(コムシなど)と外顎類(イシノミ以降)が非昆虫と昆虫の境界だとする説が有力ですが、生理学的な特徴や特定の遺伝子の有無を考慮しているという点で、我々が提示する理論はほぼ収束しつつある学説に新たな視点を提示します。また、昆虫特有の軽くて丈夫な外骨格についても盛んに議論されていますが、それを可能にする分子メカニズムについて具体的遺伝子名を挙げて説明しているのは、我々の説が(おそらく)最初であるという部分で独自性が高いといえます。

6.問合せ先

(研究に関すること)
東京都立大学大学院 理学研究科 助教 朝野 維起
TEL:0426-77-1111 E-mail:asano-tsunaki@tmu.ac.jp

杏林大学 データサイエンス教育研究センター※ 助教 橋本 晃生
※研究時の所属:杏林大学 保健学部 臨床検査技術学科
TEL :0422-47-8000  E-mail : kosei-hashimoto@ks.kyorin-u.ac.jp

(大学に関すること)
東京都公立大学法人
東京都立大学管理部 企画広報課 広報係
TEL:042-677-1806 E-mail:info@jmj.tmu.ac.jp

学校法人杏林学園
杏林大学 広報室
TEL :0422-44-0611 E-mail :koho@ks.kyorin-u.ac.jp

報道発表資料(579KB)

ーーーーーーー

東京都立大学大学院 理学研究科 朝野 維起助教