東京慈恵会医科大学耳鼻咽喉科学教室 栗原 渉助教、鄭 雅誠助教、小島 博己教授、再生医学研究部 岡野James洋尚教授、東京都立大学大学院人間健康科学研究科 畑 純一准教授らの研究グループは、超高磁場MRIで撮影したヒト篤志献体のサンプルを解析することで、三次元構造を保ったまま嗅神経を可視化することに成功しました。本研究により、世界で初めて、鼻腔から脳へと投射されるヒト嗅神経の分布と走行経路が明らかとなりました。
今後、本技術を発展させることで、嗅覚障害に対する新しい検査方法や、嗅覚を温存した手術方法の開発につながっていくことが期待されます。
嗅覚障害はCOVID-19のような上気道感染症、慢性副鼻腔炎、外傷などによって引き起こされ、患者の生活の質(QOL)を大きく低下させることが知られています。また、嗅覚障害は認知症、パーキンソン病等の神経疾患の先駆症状として出現することも知られています。超高齢社会を迎えた我が国において、嗅覚障害の他覚的検査方法の確立、それによる早期発見・早期治療を目指した包括的な治療方針を整備するのは急務だと言えます。
現在、嗅覚障害の診断には、基準嗅力検査に代表される、自覚的な検査方法が使用されます。しかし、問題点として、どの部位が障害されたことによって嗅覚障害が起こっているかという部位診断は困難であるという点、主観的データであり個人間比較や客観的評価が困難である点が挙げられます。
こうした問題に対応するために、本研究ではMRIによる嗅神経の可視化に取り組んできました。MRIの解析技術の一つである神経トラクトグラフィーは、水分子の動きやすい方向を検出することで、神経線維の走行を擬似的に描出することを可能とします。定量性もあることから、部位間や個体間の神経の状態を比較することも可能です。本技術を鼻腔に応用するという世界初の試みにより、以下の成果が得られました。
- 超高磁場MRIと神経トラクトグラフィーにより、ヒト嗅神経の可視化に世界で初めて成功しました。
- 鼻腔から中枢へと投射していく嗅神経は、鼻腔内の上下・前後軸を保ったまま中枢へと投射していくことが示されました。
- 嗅神経は鼻腔内の鼻中隔、上鼻甲介、中鼻甲介に分布しており、従来考えられていたよりも広い範囲に分布している可能性が示唆されました。
- 慢性副鼻腔炎の手術後と考えられる篤志献体を用いた解析では、嗅神経が短縮している可能性が示唆されました。
- 本技術を応用することで、嗅覚障害の部位診断のための他覚的検査の開発が期待されます。
本研究の成果は9月6日午後6時(日本時間)にCommunications Biology誌に掲載されました。
また、本研究はJSPS 科研費 JP19K21357、JP20K18265、JP17K19735、JP21K09568の助成を受けたものです。
研究の詳細
1.背景
においの知覚は、鼻腔内に揮発性のにおい分子が取り込まれ、嗅神経細胞に接着することで始まります。におい分子が接着した嗅神経細胞は電気的に活動し、その神経シグナルを嗅覚の一次中枢である嗅球へと投射していきます。嗅覚障害の原因としては上気道感染症、慢性副鼻腔炎、外傷などが挙げられます。また、嗅覚障害は認知症、パーキンソン病等の神経疾患の先駆症状として出現することも知られています。さらに、嗅覚障害を有さない高齢者は、嗅覚障害を有する高齢者と比較して認知機能が有意に高く、死亡率が有意に低いといった報告もあります1。超高齢社会を迎えた我が国において、嗅覚障害の他覚的検査方法の確立、それによる早期発見・早期治療を目指した包括的な治療方針を整備するのは急務だと言えます。
これまでの嗅覚研究は主にマウスなどのげっ歯類を用いて行われており、多くの成果をもたらしてきましたが、げっ歯類と霊長類は鼻腔形態や嗅覚レセプターの数が大きく異なることから、その結果をヒト臨床に適応する際には注意を払う必要があります。また、動物実験で使用される遺伝学的手法や神経トレーサー注2をヒトに応用することは困難であり、直接ヒトを対象に研究を行うことにも制限がある状況でした。
一方、MRI技術の進化は目覚ましく、高磁場化、解析手法の発展により、これまでは見ることができなかったものを可視化することが出来るようになっています2。本研究で利用した神経トラクトグラフィーは、水分子の動きやすい方向と速さを捉える拡散強調画像を利用して、神経線維を擬似的に可視化することができます。神経線維に沿った方向では水分子は動きやすく、神経線維と直行する方向では水分子は動きにくいという特性を利用した技術であり、脳神経外科領域などでは既に臨床応用もされています。私たちの研究グループは、東京慈恵会医科大学に設置されている9.4テスラの超高磁場MRI注1と神経トラクトグラフィーを組み合わせることで、嗅神経の可視化に挑戦してきました3。
2.手法・成果
i. マウスを用いた嗅神経の描出
まず、“MRIによる嗅神経の可視化”という全く新しいアプローチにより得られる成果が信頼に足るものかを検証するために、嗅覚研究で汎用されているマウスを用いた実験を行いました。これまでに、マウスの嗅神経の走行経路は、遺伝子改変マウスや神経トレーサーを用いて解析されていました4,5。これらの報告により、マウス鼻腔の鼻中隔(内側に位置)、鼻甲介(外側に位置)に分布する嗅上皮から投射する嗅神経線維が、嗅球のどの領域に投射するかというパターンが分かっていました。超高磁場MRIを用いてマウス鼻腔から嗅球までを撮影し、神経トラクトグラフィーを行うと、既報の嗅神経と同様な神経線維の投射パターンが可視化されました(図1)。
図1. マウス鼻腔の神経トラクトグラフィー(文献3より引用改変)
上段:鼻腔から嗅球に投射する神経線維が可視化された。
下段:各鼻腔の領域から投射する神経をそれぞれ色分けして可視化した。
ⅱ. 小型霊長類コモンマーモセットを用いた組織学的解析との対比
続いて、神経トラクトグラフィーで描出される神経線維が、嗅神経であるかということを検証するために、マウスとヒトの中間の大きさであり、ヒトと鼻腔形態がよく似たコモンマーモセット注3を用いた解析を行いました。マウス、コモンマーモセット、ヒトの鼻腔形態を比較すると図2のようになります。マウスでは鼻腔外側の隆起した構造である篩骨甲介が6個あるのに対し、コモンマーモセットとヒトでは2個です。
図2. 鼻腔形態の違い(文献3より引用改変)
マウスでは篩骨甲介が6つ(図では隠れているものがある)あるのに対し、
コモンマーモセットとヒトでは2つである。上鼻甲介と中鼻甲介が篩骨甲介にあたる。
コモンマーモセットを用いて神経トラクトグラフィーと免疫組織学的解析を行いました。まず神経トラクトグラフィーで得られた結果では、マウスでは6個の鼻甲介に分布していた神経線維が、コモンマーモセットでは2個の鼻甲介に分布していました。MRI撮影を行ったコモンマーモセットの鼻腔の組織切片を作製し、嗅神経マーカーであるOlfactory Marker Protein(OMP)で免疫染色を行うと、神経トラクトグラフィーで得られた分布と一致するタンパク発現分布が確認されました。このことから、神経トラクトグラフィーで描出された神経線維は嗅神経であると考えられました。神経トラクトグラフィーと免疫組織学的解析を重ねて詳細に観察してみると、神経トラクトグラフィーでは細い嗅神経は認識されず、ある程度太い嗅神経の走行を可視化していることが分かりました(図3)。このことは、神経トラクトグラフィーで示された領域よりも、広い範囲に嗅神経は分布している可能性を示唆しています。
図3. コモンマーモセットを用いた神経トラクトグラフィーと免疫染色の重ね合わせ画像(文献3より引用改変)
MRIを撮影したサンプルから組織切片を作製し、同じ位置で重ね合わせ画像を作製した。
OMPで染色された比較的太い嗅神経線維に一致して、神経トラクトグラフィーでは線維が描出されている。
ⅲ. ヒト嗅神経の神経トラクトグラフィー
次に、篤志献体を用いて神経トラクトグラフィーによるヒト嗅神経の可視化を行いました(倫理委員会により承認)。鼻腔から嗅球までの投射を観察すると、コモンマーモセットと同様に二つの鼻甲介と鼻中隔に嗅神経が分布していることが分かりました。甲介側では上鼻甲介全体、中鼻甲介前方下端付近まで、鼻中隔側では甲介側の対面で同様の範囲に嗅神経は分布しており、これまでの報告6,7よりも広範囲に嗅神経が分布している可能性が示唆されました(図4)。続いて、嗅球内は多くの神経が多彩な走行をとっており、通常の撮影方法では解像度が不足していたため、特殊な装置であるクライオプローブ注4を使用した撮影を行いました。すると、嗅球に投射された嗅神経が嗅球の内部をどのように走行するかが可視化されました。通常撮影のデータと組み合わせて解析することで、鼻腔内のどの領域から嗅球のどの領域に投射するかという嗅神経の対応表である嗅神経地図を作成することが可能でした(図4)。
図4. ヒト嗅神経の分布(文献3より引用改変)
左図:ヒト鼻腔および嗅球の神経トラクトグラフィー
右図:左図をもとに作成した鼻腔内のどの領域から嗅球のどの領域に投射するかという嗅神経地図
最後に、鼻副鼻腔手術の痕がある篤志献体の神経トラクトグラフィーを行いました。鼻副鼻腔手術は主に慢性副鼻腔炎に対して行われる手術であり、慢性炎症あるいは手術自体により嗅神経が障害されている可能性が高いと予想されます。解析の結果、手術痕がある献体では、手術痕の無い献体と比較すると、描出される嗅神経の長さが短くなっているという傾向がみられました。サンプル数が少なく統計学的解析は行えませんでしたが、神経トラクトグラフィーを、客観的な嗅神経の評価方法として活用できる可能性が示唆されました。
3.今後の応用、展開
本研究では超高磁場MRIと神経トラクトグラフィーにより嗅神経を可視化するという世界初の試みを行いました。マウス、コモンマーモセット、ヒトの嗅神経の走行が明らかになり、今後の基礎研究、臨床への応用が期待されます。特に、客観的な嗅覚障害の検査方法としての活用を視野に入れて、定量評価に力をいれて解析を進めていく予定です。
4.脚注、用語説明
注1 超高磁場MRI:
MRIはMagnetic Resonance Imagingの略です。磁気と電磁波を用いて、組織を壊すことなく内部の状態を画像化することができます。現在、一般診療で使用されているMRI検査は1.5テスラか3.0テスラですが、本実験で使用した装置は9.4テスラと非常に高い磁場を有しています。
注2 神経トレーサー:
生体内あるいは固定組織において神経連絡を解析するための技術です。ウイルスベクターや脂質トレーサーを用いたものなどがあり、神経細胞の細胞突起を可視化します。
注3 コモンマーモセット:
南米原産の新世界ザルです。体重300 g程度と小型で繁殖力も高く、有用な実験動物として注目されています。
注4 クライオプローブ:
MRIにおいて電波を受信するコイルを冷却して熱雑音を低減させ使用することにより、条件にもよりますが、通常の受信コイルと比較して2.5~5.3倍の感度向上が得られる技術です。
5.論文タイトル、著者
掲載誌名|Communications Biology
論文タイトル|MRI Tractography Reveals the Human Olfactory Nerve Map Connecting the Olfactory Epithelium and Olfactory Bulb
著者|Sho Kurihara, Masayoshi Tei, Junichi Hata, Eri Mori, Masato Fujioka, Yoshinori Matsuwaki, Nobuyoshi Otori, Hiromi Kojima, Hirotaka James Okano
著者(日本語表記)栗原 渉、鄭 雅誠、畑 純一、森 恵莉、藤岡正人、松脇由典、鴻 信義、小島博己、岡野James洋尚
6.引用文献
1 Gopinath, B., Sue, C. M., Kifley, A. & Mitchell, P. The association between olfactory impairment and total mortality in older adults. J Gerontol A Biol Sci Med Sci 67, 204-209, doi:10.1093/gerona/glr165 (2012).
2 Mori, S. & Zhang, J. Principles of diffusion tensor imaging and its applications to basic neuroscience research. Neuron 51, 527-539, doi:10.1016/j.neuron.2006.08.012 (2006).
3 Kurihara, S., Tei, M., Hata J. et al. MRI tractography reveals the human olfactory nerve map connecting the olfactory epithelium and olfactory bulb. Commun Biol, doi: 10.1038/s42003-022-03794-y (2022)
4 Mombaerts, P. et al. Visualizing an olfactory sensory map. Cell 87, 675-686, doi:10.1016/s0092-8674(00)81387-2 (1996).
5 Astic, L. & Saucier, D. Anatomical mapping of the neuroepithelial projection to the olfactory bulb in the rat. Brain Res Bull 16, 445-454, doi:10.1016/0361-9230(86)90172-3 (1986).
6 Escada, P. [Localization and distribution of human olfactory mucosa in the nasal cavities]. Acta Med Port 26, 200-207 (2013).
7 Dare, A. O., Balos, L. L. & Grand, W. Olfaction preservation in anterior cranial base approaches: an anatomic study. Neurosurgery 48, 1142-1145; discussion 1145-1146, doi:10.1097/00006123-200105000-00037 (2001).
【本研究内容についてのお問い合わせ先】
岡野James洋尚(おかの じぇいむす ひろたか)
東京慈恵会医科大学 再生医学研究部 教授
栗原 渉(くりはら しょう)
東京慈恵会医科大学 耳鼻咽喉科学教室 助教
TEL:03-3433-1111(代)
畑 純一(はた じゅんいち)
東京都立大学大学院 人間健康科学研究科 放射線科学域 准教授
電話 03-3819-1211
【報道機関からのお問い合わせ窓口】
学校法人慈恵大学 経営企画部 広報課
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