1.概要
コロナウイルスによる感染症(COVID-19) は、急速に世界中に感染が拡大しました。感染症の伝播は、数理科学の研究対象として、多方面の角度からの研究の蓄積があり、COVID-19の感染拡大の中、研究が深化すると共に、実践的に、感染の分析、感染収束のための対策への提案がなされてきました。ウイルスは常にゲノムの変化を伴う変異を繰り返しますが、ウイルスの変異株の感染拡大が重大な関心事になっています。
東京都立大学大学院 理学研究科物理学専攻 岡部豊 客員教授と首藤啓 教授は、ネットワーク理論に基づくミクロな感染症伝播のモデルで、数値シミュレーションによる研究を行っています。特に、変異株の伝播について、従来型のウイルスによる広範な感染に、変異株に感染した少数の個体が加わるとした条件のシミュレーションを行いました。従来株よりも感染力の強い変異株が加わると、変異株は急速に拡がっていきますが、一方、感染力が従来株と同程度であれば、感染は拡がりません。これは感染症伝播の区画モデルでは説明できないことで、コンタクトプロセスから知られる動的吸収状態の概念で理解することができます。
2.ポイント
- ネットワーク上のミクロな感染症伝播の数理モデルに基づき、シミュレーションにより、変異株の感染伝播を研究しました。
- 従来株の感染が進んでいるときに、感染力の強い変異株への感染が起こると、少数でも、変異株の感染が急速に拡大すること、一方、感染力が従来株と同程度である場合には、感染が拡がらないことを示しました。
- 変異株の感染の拡がりが、変異株の感染力に対して線形ではなく、非線形であることは、平均的な一様な集団の人数を扱う区画モデルでは理解できず、ネットワーク上の感染症ダイナミクスの非平衡相転移に関連していることを論じました。
- 変異株がなぜ感染拡大するか、一方、ある場合になぜ拡大しないか、数理を理解することが、感染症対策の上でも重要です。
■本研究成果は、1月11日付け(英国時間)で、Nature Publishing Group が発行する英文誌 Scientific Reports に発表されました。
3.研究の背景
2019年12月に中国の武漢で発生したコロナウイルスによる感染症(COVID-19) は、急速に世界中に感染が拡大しました。報道でも、感染症の伝播の数理に関する議論がなされています。感染症の伝播の数理モデルとして、集団中の個体を感染症の状態(非感染者、感染者、回復者)により分類し、分類された集団の人数の時間変化を調べる、区画モデルと呼ばれるモデルがよく用いられます。1927年に提唱されたSIRモデル(注1)が代表的なもので、感染する確率に基づいて、非感染者数(S)、感染者数(I)、回復者数(R)の3変数(総和が一定の条件から独立な変数の数は2)の時間変化を微分方程式による解析を行います。非感染者の集団に感染者が発生すると、感染者数が増大し、非感染者数が減少していくと、感染者数も減少していくふるまいが得られますが、感染拡大の速度は、非感染者と感染者が接触したときの感染率 β と、回復の速度を表す回復率(隔離率)γ で決まり、γ の逆数 1/γ は平均感染期間を表します。2つの速度定数の比 β/ν が、感染が拡大するかどうかのしきい値を与え、R0=β/νを基本再生産数とよびます。
区画モデルでは、感染する確率に基づいた議論がされますが、実際には、集団の中でそれぞれの個人が等しい感染確率を持っているわけではありません。特定の個人が接触するのは、集団の中の限られた人であり、接触の範囲は、非常に広い人もいるし、狭い人もいます。このような人のつながりは、ネットワークという概念により記述されます。ここでは、ネットワーク理論(注2)の発展で重要な役割を果たした、Erdos-Renyi が提唱したランダムなERネットワークと、Barabasi-Albert が提唱したスケールフリー性をもつ BAネットワークを取り上げます。
(a) | (b) |
図1.ERネットワーク上のミクロなSIRモデルのシミュレーションの結果。変異株のない、基準とする系。基本再生産数 のウイルスに t=0で10人感染したとする。緑線は非感染者(S)、赤線は感染者(I)、青線は回復者(R)の人数。
(a) 100サンプルの時間変化を重ねてプロットしてある。(b) 100サンプルの平均。
前論文で複雑ネットワークでつながった個人の感染症伝播のミクロな数理シミュレーションを行いました1)。区画モデルの速度定数との対比、複雑ネットワークにおけるハブの効果に、重点をおきました。シミュレーションの方法は、ネットワークでつながった個体が、非感染者と感染者がつながっている場合に、ある確率で感染すること、また、ある経過時間(平均時間を指定するポアソン分布を仮定)がたつと、感染者は回復者に変わるというアルゴリズムで実行します。変異株の効果を調べるための参考システムとして用いるために、ERネットワーク上の変異株がない場合の結果を示します。初期条件(t=0)として、ランダムに選んだ10個体が感染しているとします。ウイルスは β=0.36 の感染力を持ち、平均感染期間は 1/γ=5.0 であると仮定します。 で定義される基本再生産数は、 となります。3つのタイプ(S、I、R)の個体数の時間発展を図1に示します。100サンプルについてシミュレーションを行い、すべてのサンプルの時間発展を図1(a)にプロットしてあります。各サンプルの時間発展にはばらつきがあります。図1(b)は100サンプルの平均をプロットしたものです。感染者数(I)は時間とともに増加し、ピークに達した後、徐々に減少し、微分方程式のSIRモデルと同じ挙動を示しています。ミクロなシミュレーションで注意すべきことは、ある場合に感染が拡大し、ある場合に感染が拡がらないことです。これは、感染症ダイナミクスの、無病(吸収)状態と活動的な定常段階との間の非平衡相転移に関連して、コンタクトプロセス(注3)に見られる現象として知られています。このことは確率的感染症モデルというアプローチでも研究がされてきました。
4.研究の詳細
本研究の中心的な課題である、変異株の効果についての話に進みましょう。シミュレーションの方法を拡張します。従来株の感染者と変異株の感染者を区別して、異なる感染率を用いたシミュレーションを行います。図1と同条件の設定で、t=21 の時点で非感染者の中から選んだ10人が外的要因で変異株に感染したとします。変異株は β'=1.08と3.0倍の感染力を持ち、平均感染期間は元のウイルスと同じ値、1/γ'=5.0 をとると仮定します。変異株の基本再生産数は R0'=5.4 となります。 t=21 での状況は、約900個体が感染し、約500個体が回復し、約8600個体が非感染です。図2では、変異株に感染した個体数(I')と変異株から回復した個体数(R')を破線で示しています。100サンプルの平均値を示していますが、t=21 の後で変異株感染が拡がり始めます。R(∞) は元のウイルスの t=∞ における回復者の数ですが、感染者が 0 になっているので、最終的な感染者総数になります。R'(∞) の値は変異株に感染した感染者総数を表しています。R(∞) の値は、変異株がない場合に比べて若干減少しています。図2の青実線と図1(b)の青実線を比べてみてください
図2. 感染症の伝播における変異株の効果(ERネットワーク上)。 t=21 のときに、10人が3倍の感染力(R0'=5.4) の変異株に感染したとする。100サンプルの平均をプロットしてある。赤と青の破線は、変異株の感染者(I')と回復者(R')である。 | 図3.感染者の内、変異株の感染者の割合の時間変化。図2に示したデータを用いている。 |
「変異株に入れ替わった」など、変異株の割合の変化がよく議論されます。図2のデータから計算した変異株の感染者の割合の時間変化をプロットしたのが図3です。変異株の割合が増加しているのは、変異株の感染が拡がっていることを意味しています。
図4.感染症の伝播における変異株の効果(ERネットワーク上)。t=21 のときに、10人が従来株と同じ感染力(R0'=1.8) の変異株に感染したとする。100 サンプルの平均をプロットしてある。 | 図5.感染者総数の、変異株の基本再生産数 R0' に対する依存性。 |
比較のために、追加する変異株の感染力が従来株と同じ場合を考えてみましょう。t=21 の時点で、従来株と同じ R0'=1.8 の変異株に10人が感染したとします。図4は、感染した個体数の時間発展を示したもの(100 サンプルの平均)ですが、すべてのサンプルで、変異株の感染拡大は見られていません。追加された変異株は、吸収状態にあると考えられます。900人の感染者に10人の変異株感染者が加わっても、ほとんど影響がないことになります。
このように、変異株の感染力が強いと、たとえ少数の個体が感染しても、感染の拡大につながることを示しました。一方、変異株の感染力が元のウイルスと同程度の場合は、感染が拡がらないという、動的な効果もあります。では、感染力が中間の場合はどうなるでしょうか。変異株の基本再生産数が中間の値である場合のシミュレーションも実行して、変異株の感染拡大の挙動を系統的に調べてみます。最終的な感染者総数の、変異株の基本再生産数 R0' に対する依存性を図5にプロットしています。変異株の感染者総数を青の破線で、従来株の感染者総数を青の実線で示します。また、100サンプルの標準偏差をエラーバーで示しています。変異株の感染者総数は、感染力に応じて増加し、変動幅も大きくなっていることがわかります。感染者総数の増加は線形的ではなく、感染力が大きくなると非線形的に増加することがわかります。一方、従来株の感染者総数は若干減少します。これは、変異株への新たな感染がなければ従来株に感染していた個体が、変異株に感染するためです。変異株感染者総数と従来株感染者総数の和は赤線で示され、その和は増加しています。和の変動は必ずしも大きくはありません。
なお、実際の研究は、ランダムネットワークであるERネットワークとスケールフリーネットワークであるBAネットワークの両方でシミュレーションを行いました。BAネットワークではハブの存在が感染の急激な増加を促しますが、変異株の効果は、基本的にERネットワークの場合と同様です。
5.研究の意義と波及効果
ネットワーク上でミクロなモデルの数値シミュレーションを行い、ウイルスの変異株が拡がる様子を研究しました。ネットワーク上の感染症伝播シミュレーションの途中で、変異株を追加しましたが、感染力の強い変異株を追加すると、その変異株は急速に拡散します。注目すべきは、拡散の速度が変異株の感染力に対して線形ではなく、非線形であることです。変異株が従来株と同程度の感染力を持つ場合、その変異株は大きく拡がりません。これは、複雑ネットワーク上の感染症ダイナミクスの、吸収状態への転移として理解されます。これは区画モデルで説明することはできません。以上のように、感染力の強い変異株が急速に拡散し、感染力の弱い変異株は拡散しない理由が明らかになりました。
今回の研究は、あるパラメータを持つモデル系に対するものですが、現実のパンデミック対策に向けた教訓を得ることができます。感染力が同程度の変異株の拡散は、大きな効果をもたらさないのに対して、元のウイルスよりも感染力の強い変異株は、非線形に感染を拡げていきます。もちろん、その変異株が重症化するかどうかが重要な要素です。空港検疫の大きな役割は、変異株を特定することであるといえます。感染力の強い変異株については、遺伝子検査で特定し、感染者を早く隔離することが重要です。このような変異株は、より慎重に監視されなければならず、蔓延を抑制するための対策が必要です。特別な接触者追跡が必要で、旅行制限はウイルスの蔓延を抑えるのに有効です。遠距離の人々との接触は、ネットワークにおけるハブの存在と関連しています。しかし、最終的に流行をコントロールするためには、ワクチンの展開を大幅に加速させる必要があります。
感染症の伝播は、数理科学の研究対象として、いろいろな角度からの研究の蓄積があります。変異株の感染拡大というような実践的な課題について、数理科学的な理解を深化させることが、感染症対策の上でも重要です。本研究は、微分方程式論、ネットワーク理論、非平衡相転移などの応用で、このような総合的理解が、さらなる研究につながることが期待されます。
【用語解説】
注1)SIRモデル
集団中の個体を感染症の状態により分類する数理モデルは、区画モデルとよばれています。その代表的なものは、N 人から成る閉じた集団を、未感染者(Susceptible)、感染者(Infected)、および免疫をもった回復者(Recovered)の3種類に分類し、その人数の時間変化を調べるSIRモデルとよばれる数理モデルで、1927年にKermackとMcKendrickにより提唱されました。
注2)ネットワーク理論
ネットワーク理論は、現実世界の複雑なネットワークを研究する学問分野で、数学に基づき、統計物理学、計算機科学、電子工学、生態学、経済学、金融、公衆衛生など、広い分野へ応用がなされています。ネットワークはつながりを表すもので、ノード(頂点)がエッジ(辺)によってつながっています。ここでは、ネットワークとして、Erdos-Renyi が提唱したランダムなERネットワークと、Barabasi-Albert が提唱したスケールフリー性をもつ、BAネットワークを取り上げます。
注3)コンタクトプロセス
コンタクトプロセスは、グラフのサイト集合における人口増加のモデルとして用いられる確率過程であり、占有サイトは一定の割合で空きサイトになり、空きサイトは占有されている隣接サイトの数に比例した割合で占有されるようになるというものです。Harris により1974年に提唱されましたが、感染症の伝播のモデルとして用いられます。方向付きパーコレーション問題との関連が指摘されています。
【論文情報】
【参考論文】
1)“Microscopic Numerical Simulations of Epidemic Models on Networks" Y. Okabe and A. Shudo, Mathematics 9, 932 (2021)
【発表論文】
“Spread of variants of epidemic disease based on the microscopic numerical simulations on networks” Yutaka Okabe and Akira Shudo,
Scientific Reports 12, Article number: 523 (2022) DOI: 10.1038/s41598-021-04520-0
【問合せ先】
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TEL:042-677-2503(内線 3351) E-mail:shudo@tmu.ac.jp
東京都立大学大学院 理学研究科 客員教授 岡部 豊
E-mail:okabe@phys.tmu.ac.jp
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