首都大学東京大学院理工学研究科の伊藤隆教授、理化学研究所(理研)生命システム研究センター生体分子構造動態研究チームの木川隆則チームリーダー、猪股晃介研究員らの共同研究チーム※は、「in-cell NMR実験用培地供給システム[1]」における細胞試料調整法を改良し、細胞の健全性の違いが細胞内で活動する酵素タンパク質の構造状態に大きな影響を与えることを、原子レベルで解明しました。
細胞内は、タンパク質、DNA、脂質、糖質などの生体分子が高密度(200-400g/L程度)に詰め込まれた「分子混雑環境」です。そのため、多くの生化学研究で行われている、均一かつ希薄な溶液中で実験したものとは、これら生体分子本来の物理・化学的性質や生物学的機能が異なっていると考えられています。したがって、タンパク質など生体分子の機能発現メカニズムの理解を深めるには、細胞内における挙動を直接観察することが求められています。そのための有効な研究手法の一つとして「in-cell NMR法[2]」が挙げられますが、この方法を用いた研究の多くは、注目するタンパク質の挙動の解明のみに焦点が当てられており、細胞の健全性など状態との関連性についての理解が不十分でした。
今回、共同研究チームは「in-cell NMR実験用培地供給システム」を改良しました。そして、このシステムを用いて健全な状態に維持した細胞と、システムを用いず高度にストレスのかかる環境にさらした細胞とで、細胞内で活動する酵素タンパク質アデニル酸キナーゼ1の構造状態を比較しました。その結果、健全な状態を維持した細胞内では、この酵素タンパク質が正しく機能する折り畳み構造を持つ一方、高度にストレスのかかる環境にさらした細胞内では、本来形成するはずの折り畳み構造が解けてその機能が失われていることが分かりました。
本研究で得られた知見や実験手法は、高精度な薬剤設計に向けた創薬研究基盤としての活用や、細胞の健全性の違いをタンパク質の構造状態によって判別する新しい医療診断法への応用につながるものと期待できます。
本研究成果は、英国の科学雑誌『Chemical Communications』に掲載されるのに先立ち、オンライン版(9月22日付け:日本時間9月22日)に掲載されました。
本研究は、科学技術振興機構(JST)戦略的創造研究推進事業(CRESTおよびさきがけ)「ライフサイエンスの革新を目指した構造生命科学と先端的基盤技術」、日本医療研究開発機構(AMED)「医療分野研究成果展開事業(先端計測分析技術・機器開発プログラム)」、日本学術振興会 科学研究費補助金新学術領域研究「スパースモデリングの深化と高次元データ駆動科学の創生」および若手研究B「細胞環境とタンパク質動的挙動との間の相関関係解析」等の支援を受けて行われました。
※共同研究チーム
理化学研究所
生命システム研究センター 細胞動態計測コア 生体分子構造動態研究チーム
チームリーダー 木川 隆則(きがわ たかのり)
研究員 猪股 晃介(いのまた こうすけ)
リサーチアソシエイト 碇 正臣 (いかり まさおみ)
首都大学東京 大学院理工学研究科
教授 伊藤 隆 (いとう ゆたか)
博士後期課程 鴨志田 一(かもしだ はじめ)
背景
細胞内は、タンパク質、DNA、脂質、糖質などの生体分子が高密度(200-400g/L程度)に詰め込まれた「分子混雑環境」です。そのため、多くの生化学研究で行われている、均一かつ希薄な溶液中で実験したものとは、これら生体分子本来の物理・化学的性質や生物学的機能が異なっていると考えられています。実際、分子混雑の効果がタンパク質の構造や機能に影響を与えることを示した研究成果が複数報告されています。つまり、細胞内などの研究対象とする生体分子の本来活動する場所における「あるがままの姿」を捉えることが、それらの機能発現メカニズムを正確に理解するために重要となります。
細胞内の生体分子の計測・解析には、主に各種顕微鏡観察が行われていますが、タンパク質の機能発現に重要な3次元立体構造情報を取得するには顕微鏡観察は必ずしも適していません。そこで近年、細胞内タンパク質の構造情報を原子レベルで、さらには細胞を破壊することなく生きたまま計測・解析することができる「in-cell NMR法」を用いた研究が進められています。ただしこれらの研究の多くは、注目するタンパク質の挙動の解明のみに焦点が当てられており、細胞の健全性など状態との関連性については理解が不十分でした。
そこで共同研究チームは、細胞の健全性の違いが細胞内で活動するタンパク質の構造状態にどのような影響を与えるかを、in-cell NMR法を駆使した原子レベルの解析によって評価しようと試みました。
研究手法と成果
共同研究チームは、安定同位体(15N)[3]で標識されたタンパク質(アデニル酸キナーゼ1)をヒト培養細胞(HeLa細胞)へ導入し、研究試料としました。こうすることで、研究対象の生体分子を選択的に観測することができます。
アデニル酸キナーゼ1は、細胞質中でアデノシン二リン酸(ADP)2分子からアデノシン三リン酸(ATP)とアデノシン一リン酸(AMP)のそれぞれ1分子を合成・相互変換する酵素タンパク質です。このタンパク質は反応を行う際、基質(ATP、ADP、AMP)との会合に伴って、その構造を開いた構造から閉じた構造へと変化させます(図1)。このことから、細胞の健全性の低下(例えばATPなどの栄養の枯渇によるストレスの付与)によって、タンパク質の構造状態が変化すると期待されます。
図1 基質との会合に伴うアデニル酸キナーゼ
アデニル酸キナーゼ1は酵素タンパク質として化学反応を触媒する際、基質(ATP、ADP、AMP)との会合に伴って開いた構造から閉じた構造へ変化する。
また、本研究の目的である細胞の健全性の違いによる細胞内タンパク質の構造状態の変化を解析するには、NMR試料管内において細胞培養環境を制御し、細胞の健全性を変化させる必要があります。しかし、従来のin-cell NMR実験の多くは、培養培地に懸濁した高密度(1mL当たり1億個程度)の細胞試料を、NMR試料管に詰めて細胞が死なないうちに速やかに実験を終了するというもので、細胞培養環境を制御することは困難でした。そこで、共同研究チームはNMR試料管へ継続的に培養培地を供給しながら、in-cell NMR実験を可能にするシステムにおける細胞試料調整法を、従来よりも簡便かつ再現性に優れるよう改良しました。
まず、この「in-cell NMR実験用培地供給システム」を用いて、細胞を健全な状態に維持しつつ、細胞内のアデニル酸キナーゼ1の構造状態を評価しました。その結果、よく分散したin-cell NMRスペクトルパターンが確認でき、健全な細胞培養条件下においては細胞内でアデニル酸キナーゼ1が正しく機能する折り畳み構造を持つことが分かりました(図2上段)。一方で、培地供給システムを用いず細胞を高度にストレスのかかる環境にさらして構造状態を評価したところ、細胞が健全な場合とは全く異なり、分散性の非常に悪いin-cell NMRスペクトルパターンを示しました(図2下段)。
このことから高度にストレスのかかる環境にさらされた細胞内において、アデニル酸キナーゼ1が本来形成するはずの折り畳み構造が解けて、その機能が失われていることが明らかになりました。このように、細胞の健全性の違いが、それら細胞内で活動するタンパク質の構造状態に大きな影響を与える場合があることを、in-cell NMR法による解析を通して原子レベルで明らかにしました。
図2 細胞の健全性の違いによるアデニル酸キナーゼ1の構造状態の変化
健全な状態の細胞内とストレス環境下の細胞内のそれぞれについて、細胞内に分布するアデニル酸キナーゼ1をin-cell NMR法によって計測・解析した結果。
●上段) NMR試料管の中で細胞を健全な状態に維持しながらin-cell NMR実験を行なった際の実験結果(右側)。これは、細胞内でアデニル酸キナーゼ1が機能を発揮できる正しい折り畳み構造を形成していることを意味する。
●下段) NMR試料管の中で細胞が栄養の枯渇などのストレスがかかる環境にさらされた場合のin-cell NMR実験結果(右側)。これは、細胞内でアデニル酸キナーゼ1が折り畳み構造を形成できず、細胞内で機能を発揮できない状態にあることを意味する。
今後の期待
共同研究チームは、細胞を健全な状態に維持した際のアデニル酸キナーゼ1の構造状態をさらに詳しく調べており、基本的には閉じた構造が優勢であるものの、希薄溶液中で調べられているものとは部分的に異なる構造状態になっていることが示されました。今後のさらなる研究によって、アデニル酸キナーゼ1の機能発現メカニズムをより正確に理解できる可能性があります。
また、in-cell NMR法は、タンパク質など生体分子の本来活動する場所における「あるがままの姿」を原子レベルで捉え、それらの機能発現メカニズムをより正確に理解することができることから、高精度な薬剤設計に向けた創薬研究基盤としての活用が期待できます。さらに本成果は、細胞の健全性の違いをタンパク質の構造状態によって判別したと考えることもでき、将来的には本研究を発展させた新しい医療診断法への応用も期待できます。
論文情報
<タイトル>
Impact of cellular health conditions on the protein folding state in mammalian cells
<著者名>
Kohsuke Inomata, Hajime Kamoshida, Masaomi Ikari, Yutaka Ito and Takanori Kigawa
<雑誌>
Chemical Communications
<DOI>
10.1039/c7cc06004a
補足説明
本システムは主に、NMR試料管へ継続的に培養培地を供給するための送液法と、培養培地を供給している際に測定試料となる細胞がNMR試料管から排出されないよう固定するための試料調整法の二つの要素技術からなる。本研究では、最近提案された遠心分離を利用して細胞集団をゲルで包埋する技術を応用し、先行研究で用いられていた方法に比べて簡易かつ再現性に優れた細胞試料調整を可能にした。
NMR(核磁気共鳴)法とは、強い静磁場に置かれた原子核の共鳴を観測する分光方法の一種。分子の構造や運動状態などの性質を原子レベルで調べることができる。In-cell NMR法は、溶液試料を計測する溶液NMR法を発展させ、観測対象に対して非破壊的な計測ができるというNMR法の特徴を生かし、生きた細胞内のタンパク質など生体分子の構造変化、化学修飾、分子間相互作用などを原子レベルで捉えることを可能にする。
水素や窒素など、同じ元素でも質量数の違う原子が存在する場合があり、それらを同位体と呼ぶ。同位体には放射線を発するもの(放射性同位体)と、そうではない安定なもの(安定同位体)が存在する。本研究で用いた安定同位体の15N核(窒素核の安定同位体)は、自然界で一定の割合をもって安定に存在するものの、天然存在比が約0.364%(約99.636%は14N核)と希少である。本研究では、観測対象のタンパク質中の窒素核を15N核で標識することでNMR実験の効率を向上させている。