牧野標本館では、令和2年7月豪雨に伴う球磨川氾濫により、人吉城歴史館(熊本県人吉市)の収蔵庫に所蔵されていた植物標本が浸水被害を受けたため、学術標本を修復する活動である「標本レスキュー」に参加しています。実際にレスキュー作業をしている加藤英寿助教(理学部生命科学科)にお話を伺いました。
Q.「標本レスキュー」とはどのような取り組みですか?
災害で被災した学術標本を、洗浄・乾燥して修復する活動です。かつて東日本大震災で陸前高田市立博物館が津波で壊滅的な被害を受けた際、全国の博物館・大学などの研究機関が協力して、被災した動植物の学術標本などをレスキューしたことがよく知られています。学術標本は広い意味で文化財に含まれますので、「文化財レスキュー」と呼ばれることもあります。
Q.今回、牧野標本館が、標本を受け入れることになった経緯を教えてください。
7月10日に国立科学博物館の海老原淳研究主幹から「植物系学芸員メーリングリスト」を通して、人吉城歴史館に所蔵されている植物標本(押し葉標本)が水害で被災したとの情報が伝えられました(人吉城歴史館が被災したのは7月4日)。この時点では、被災標本のレスキュー活動が出来るかどうか全く不明な状況でしたが、まずメーリングリストを通して被災標本の受け入れ先の募集が始まりました。
牧野標本館は2018年に新たに別館が増築され、設備に余裕があることから、即座に被災標本の受入を表明しました。
海老原氏の迅速な対応により、被災標本の受入機関と受入標本容量がリスト化され、7月13日に熊本県博物館ネットワークセンターに伝えられました。翌14日にセンター職員の前田哲弥博士や熊本大学の副島顕子教授らが、現地に赴いて被災状況の確認を行い、その翌日から標本の搬出作業が始まりました。受入機関に向けた被災標本の発送は7月17日から始まり、牧野標本館には7月22日に最初の6箱がクール宅急便で到着、7月27日には14箱、8月6日にはさらに5箱が届きました。
Q.牧野標本館が受け入れた標本の量、標本の概要(資料的価値など)を教えてください。
牧野標本館に届いた標本の多くは、束ねて新聞紙で包まれ、中身を見ることが出来ないため、現時点では正確な数を数えることが出来ません。おそらく一箱当たり50〜100枚の標本が入っていると推測していますので、これまでに届いた25箱で1500枚程度はあると思います。現場からの要望があれば、さらに追加で受け入れることも検討しています。
被災標本の大部分は故前原勘次郎氏(1890-1975)のコレクション(約33,000点)と思われます。前原氏は人吉高等女学校で教員として勤務する傍ら、長年にわたって植物の調査を行い、南九州の植物研究史上重要な文献である『南肥植物誌』(1932年)の著者として知られています。同氏のコレクションはこの文献の貴重な証拠標本であり、新種記載に用いられた可能性のある標本など、植物学的に重要な標本が多数含まれています。
Q.本学の牧野博士コレクションと前原コレクションの関係性や、牧野博士と前原氏の関係などがあれば教えてください。
矢加部・坂梨(2013)によれば、前原氏の遺品の中に牧野富太郎博士からの書簡が残されており、また高知県立牧野植物園では前原氏が牧野博士に送った手紙が見つかっています。その手紙の中には、牧野博士に植物標本の同定を依頼した文面も見られるそうです。
牧野博士は日本全国の植物研究者・愛好家と交流しながら、植物標本を収集したので、前原氏もその一人だったのでしょう。まだ確認はしていませんが、牧野標本館の収蔵品の中にも前原氏が採集した標本が含まれている可能性があります。
浸水被害を受けた標本が入ったダンボール箱 |
浸水被害を受けた標本 |
Q.受け入れた標本の乾燥・クリーニング処理の手順を教えてください。
牧野標本館に届いた標本は、被害の程度が様々で、泥水にまみれたものから、一見するとほとんど濡れていないものも含まれていました。このまま放置すると、標本にカビが生えたり、腐敗して修復できなくなってしまう恐れがあり、一刻も早くクリーニングして乾燥させたいところですが、処置作業はかなりの時間を要します。冷凍保存すればカビや腐敗を止めることが出来ますが、冷凍庫のスペースが限られ、全ての標本を冷凍させることが出来ません。そのため、最初に個々の箱の中身を確認し、被害の状態に応じて分別し、作業の優先順位を決めました。今回は処置に時間がかかりそうな汚れのひどい標本を、冷凍した上で後回しにして、まず被害が軽微な標本を冷蔵しながらクリーニングと乾燥を急ピッチで進めています。未修復の標本を少しでも減らすことが出来れば、さらに被災標本を追加で受け入れることが出来ると考えたからです。
標本のクリーニングに当たっては、被害状況やラベル情報を記録するため、処置前にすべての標本を写真撮影します。1枚ずつビニール袋に入れて保管されていた標本の場合は、内部まで泥水が入っていることが少ないため、作業が比較的容易です。まず、袋の周囲を切り取って、古い新聞紙に挟まれた状態の標本を取り出します。次に、袋に貼り付けられているラベルを切り取って洗浄します。そして標本とラベルを新しい新聞紙に挟んで、乾燥マットを交互に重ねて、重しでプレスして乾燥させます。
泥水にまみれた汚れのひどい標本は、冷凍庫に保管した状態で、まだ手をつけていません。これらは陸前高田の標本修復方法を参考にして、作業を進める予定です。今回は陸前高田の時のような「塩抜き」は不要ですが、表面に付いた泥を洗い流す必要があり、標本が壊れたり、ラベルが消えてしまわないよう、細心の注意を払いながら慎重に作業を進めることになります。
標本を傷つけないように慎重に取り出す |
標本ラベルも丁寧に切り取り |
標本の状態とラベル等の記録を残すため、全ての標本を写真撮影する |
Q.この処理の工程で、一番気をつかうところ(難しいところなど)はどんなところですか。
被災標本は多少なりとも泥水をかぶっていますが、泥水には下水・汚物が混じっており、中には破傷風菌などの危険な細菌や有害なカビ胞子などが含まれている可能性があります。そのため、標本のクリーニング作業を行う際は、白衣・マスク・手袋などの着用と手指の洗浄・消毒を徹底する必要があります。また周囲への汚染防止のため、作業を行う部屋は、内部を養生シートで覆いました。さらに、現在は新型コロナ対策で3密を避けなければなりませんので、同時に作業するのは1〜2人に制限しています。
修復が完了した標本、標本を挟んでいる古い新聞紙も重要な資料 |
データが記入された標本ラベルも一緒に保存する |
植物標本の修復作業では、標本に付随する記録・情報を失わないように注意しなければなりません。植物体そのものを壊さないようにすることはもちろんですが、標本台紙に貼られている標本ラベルは、その植物の採集地や年月日、採集者名などの情報が記入されており、これが失われてしまうと標本の学術的価値も無くなってしまいます。今回送られてきた標本の中には、標本ラベルが無いかわりに、新聞紙に採集情報が記入されているものも含まれているため、情報が記入された新聞紙なども捨てずに保存しなければなりませんし、洗浄の過程でインクが消えないよう注意を払う必要もあります。
いずれの作業工程も、初めて経験することが多いので、個々の標本の状態を確認しながら、その学術的価値を守るために最善と思われるやり方を手探りしつつ処置を進めています。
なお、被災標本の処置方法などについては、レスキューに携わっている関係者の間でメーリングリストを通して随時情報共有しており、これが非常に役立っています。
Q.「標本レスキュー」参加への想いなどを教えてください。
牧野博士は日本各地において、植物学を普及するための講演会や観察会を開催し、地域の人々と交流を深めて、前原氏のような数多くの郷土の植物研究家を育てました。地方の博物館には、このような郷土の研究者が蓄積した標本や資料が数多く残されています。これらの被災標本の救出活動を行うことは、牧野標本館として、また学芸員養成課程を開講している本学としても、やる意義のある被災地支援と考えています。
修復後の標本は、現地の受け入れ体制が整い次第、全国から現地に返還される予定です。今回の水害で多くのものが失われてしまった被災地にとって、これらはかけがえのない郷土の宝となることでしょう。現地に行けなくてもできる被災地支援の事例として、このような標本(文化財)レスキュー活動を知っていただければ幸いです。
牧野標本館とは
牧野標本館は、牧野富太郎博士が採集された植物標本を中心に、藻類・コケ・シダ・裸子・被子植物など約50万点の標本を所蔵しています。これらの標本は、学内の教育・研究に加えて、外来研究者の標本閲覧や貸出等の要望にも対応するなど、国内外の研究者に広く活用されています。また、さらに一般の方々にも活用していただけるよう、インターネットによる標本画像データベースの公開も進めています。
参考
PR TIMES【国立科学博物館】貴重な標本を救え!!全国の自然史系博物館・大学による「令和2年7月豪雨」植物標本レスキュー支援活動についてhttps://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000118.000047048.html
矢加部和幸・坂梨仁彦(2013)前原勘次郎あての牧野富太郎からの手紙.Botany 63: 36-39.