本文へ移動します

川淵三郎理事長 挨拶

卒業生の皆さん、修了生の皆さん、それから温かく見守っていただいている御家族の皆さん、本日は誠におめでとうございます。

前書きは一切抜きにして、はなむけの言葉を贈ります。それは「V&W」という言葉です。これは、ノーベル賞を受賞された山中伸弥先生が対談で話された言葉です。山中先生は外科医になるために、研修医として一生懸命努力されましたけれども、動物実験ではうまくいっても人間になると手術がなかなかうまくいかない。担当の先生から「ジャマ中(じゃまなか)」とさえ言われたそうです。本人は、普通のお医者さんが20分か30分で手術が済む、そういった内容の手術であっても、2時間も3時間もかかって、このままでは周りにも患者にも迷惑をかけるということで、外科医を断念して研究者の道を選び、もう一度大学院に進みます。そして、なんとかアメリカで研究をしたいということで、いろんな他薦、自薦の文章を書いてもらって、40近くの研究所に自分を採用してほしいと申し込みましたけれども、まったく相手にされませんでした。ただ一か所だけ電話があって、君は土曜日、日曜日も働けるのか、と言ってきたのでそれは働きますと言って、そこだけが採用してくれました。そこの所長には、山中先生は大変に可愛がられたようですけれども、あるときその所長がポスドク20人を集めて、研究者として成功する秘訣を教えるということで話をしました。それは「V&W」、つまりVision&Work hardだ、と言いました。そして、伸弥、君は毎日のようにハードワークをしているというのは私が一番よく知っている。ところで、君のビジョンは何なんだ、と聞かれました。山中先生は一瞬戸惑ったのですが、いい論文を書きたい、いいポストに尽きたい、いい研究費をたくさんもらいたい、と答えました。するとその所長は、それはビジョンというのではない。それはビジョンを達成するための手段に過ぎないんだ。君は一体何のためにアメリカへ来たんだ。家族を連れて何しにアメリカに来たんだと言われて、彼は大変なショックを覚えました。そしてよくよく考えてみたときに、自分が研究者になったのは、どんな外科医の名手であっても治せない難病の人達を、何とかその苦しみから救える方法を見出したいと思って自分は研究者になったんだ、という初心を、そこで初めて思い出しました。それ以来、先生はそのことをコンセプトに研究を進めたそうです。

しかし、アメリカから帰国して2、3年後にアメリカから帰った人がよくなるらしいのですけれども、精神的に病んでしまいました。彼はもう研究も嫌になり、そして、そういったビジョンさえも捨てようとすら思いました。しかし、思いとどまった結果、ノーベル賞受賞にまで繋がったんです。彼がそういうビジョンを持ったのは、考えてみると30代のことでした。

翻って私自身のことを考えると、私も同じように会社で偉くなりたい、給料をたくさん貰いたい、家族をもち、家を建てたいとかいう、自分中心のことばかりしか思っていませんでした。

51歳のとき、自分は左遷されました。このまま人生を終わって、自分としてはこの世に存在した価値はまったくないなあと、それなら自分は何ができるんだろうと、そのときに真剣に考えました。サッカーを多くの皆さんに愛してもらえる、日本で人気のあるスポーツにしたい。そして、地域社会を活性化したい。スポーツ文化を日本で創造したい。スポーツが豊かな人間をつくり、人生の一部となるような日本にしたいという思いが、多くの人と一緒にJリーグを創造することに繋がったんです。僕が、そういった意味では、ビジョンを持ったのは51歳でした。

この1月15日、軽井沢でスキーツアーバスが大惨事を起こしました。そのとき、本学の学生、皆さんの後輩が亡くなりました。こんな腹立たしい怒り、悲しみ、これをどう表現していいか、分かりませんでした。でも、そのときに、亡くなった皆さんの後輩が多くの友人に、自分は社会の役に立つ仕事をしたいと、日頃から話していたという話を聞いて、僕は本当に感動しました。この20歳にもならない、この青年が、世のため人のために働きたいと思ったんだと、自分と比べてなんと気高い、そういうビジョンを持った青年が、この本学にいたんだということを知って、本当に誇りに思いました。

皆さん方も、ビジョンを持っておられる人はいるでしょう。しかし、こうした後輩の思いを念頭において自分自身のこれから歩んでゆく、世のため人のためという思いを自分のビジョンの中に組み込んで、これからの人生を生きていってもらうことを心から願って、「V・W」をはなむけの言葉として皆さんにお贈りします。

どうも本日はおめでとうございました。

平成28年3月24日

公立大学法人首都大学東京 理事長 川淵 三郎

ページトップへ